磯田和秀

「蚋」と書いてブユと読む。吸血する昆虫である。

しかし関西ではブト、関東ではブヨと読む。関東が「標準」でないことに意外さを感じるが、グーグルで検索をすると、語句の組み合わせによっては勝手にブヨと読みかえられる。なんだか悔しいので以下では「ブト」と呼ぶことにする。でもそうすると、ブユという言葉はどこから来たんだろうか。

しかし蚋をなんと読むか知ったところでそれがなんなのか、はっきりと知っている人はどれくらいいるのだろう。実は私も、以前、奈良県の一部地域で左義長の際、燃えるとんどに「アブの口、ブトの口」と言いながら餅をちぎって投げ込む風習があると聞いたとき、「ブトとはなんだろう…?」と思ったが、どうせアブの仲間なんだろうと深くも考えなかった。

ブトはハエ目カ亜目ブユ科の総称である。アブもハエ目なので仲間といえば仲間だが、かなり遠い。そして、アブはよく見たことがあるが、ブトは「見たことがない」。どういうことかというと、ブトは、田んぼにいるときに、腕やふくらはぎなど露出した肌に噛みつのだが、嚙まれた方にしてみれば、黒い点のようなものが周囲を飛び回っていてなんだかうっとおしいなと思っているうちに、あちこちがかゆくなって仕方がなくなるだけなのだ。このかゆさの原因は、飛び回る黒い点なのだろうと腕を振り回してみても、蚊のように叩き潰せたことは一度もない。かゆいと思っているとやがて腫れてくる。かきむしって血が出てさらに腫れてくる。足がぼこぼこになる。

東千茅が、ブトに噛まれるという経験を『つち式二〇一七』に書いている。

今年も田んぼ仕事で黒くなった。黒くなったと同時に、額と腕と脚は、ブトに噛まれてつねにぼこぼこだ。それに痒い。ブトは、幼虫のあいだ水質汚染に弱く、彼らがいることは水がきれいな証拠らしいが、こうも多いと苛立つことがある。(中略)ブトが寄ってくるのは、きまって日差しのよわい早朝と夕方、あるいは曇りの日である。つまり、真昼であれば地肌をむき出しにしていても噛まれない。だから田んぼの仕事は、暑さを我慢しながらするか、痒みに我慢しながらするかのどちらかだ。

(45頁)

水がきれいなのは嬉しいがブトにも優しい環境である。夏の朝夕曇り空はこちらの体には優しいが、ブトにも素敵な時間を与えてくれる。あちらを立てればこちらが立たず、だ。

以下はジョンソンの「害虫図鑑」(http://skinguard.jp/bug.html)の記述である。

形態 成虫の体長は3~5mm。ずんぐりとした小型のハエのような虫。吸血をするのは、アシマダラブユ、アオキツメトゲブユなどの数種類。

繁殖時期 主に5~10月夏期

発生源 灌漑用水や川の岸辺や水中に垂れている植物の葉に産卵

生態・習性 幼虫、さなぎは水質のきれいな河川に生息するため、農村や、渓流、キャンプ場など山間部で多く発生。吸血するのは、蚊と同じでメスのみ。朝夕に活動し、集団で群れをなして襲うこともある。人の皮膚に傷をつけ、流れ出た血液をなめるように吸血する。蚊よりもかゆみがひどく、人によっては赤く腫れあがったり、水疱ができることも…。

「きれいな河川」「川の岸辺や水中に垂れている植物」「朝夕に活動」。うん、知ってる。あっちはうれしいだろう。ハサミのような口で、毛の生えていない脆弱なホモサピエンスの肌を切り裂き、新鮮な血をすすり、鈍重に振り回される彼らの腕を軽々とかわして、何度も何度も繰り返し血をなめる。書いていたらブトになりたくなってきた。楽しそうだ。

蚊やアブだとパチンと叩いて潰したそれらを憎らし気に眺めることもできるが、ブトはそういうわけにはいかない。素早いし小さい。蚊やアブくらいなら片手で払って、たまにヒットするとよろめいてそこを捕まえることもできるが、ブトはヒットしたのかしていないのか、まったく手ごたえがない。夏から秋にかけてあんなに苦しめられるのに、いったいどんな姿をしているのかすらわからないのだ。画像検索して初めて見ることができた。こいつか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A6#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Black_Fly.png

そんなに嫌なら虫よけスプレーでもしておけばいいではないかといわれそうだ。確かにその通りなのだが、そしてこう言っても鼻で笑われそうだが、面倒くさいのだ。この時期、田んぼでの作業は多いが、一番ブトにやられるのは、裸足になってする畔塗と田植えである。そしてその時期は合わせても10日ちょっとなので、それくらいなら我慢してやる。逆に、そのくらいなら面倒でも虫よけスプレーするという人もいるだろうが、ここは人によって分かれるところではないか。共生?スプレーしなくてもしても「共生」には違いないだろう。虫のことを思って虫よけをしないのではなくて、面倒だからしないだけなのだ。こっちの都合である。ちなみに東千茅は、うらやましいことに噛まれてもわりと早く腫れが引く体質らしい。しかし上で引用したようにかゆいのには耐え難いのには違いなく、たまに近くに生えているハッカをもんで肌に塗って虫よけにしていることがある。効果はどうかと聞くと、ないよりましとのことだった。

ところで今回の記事を書くにあたって自分の画像フォルダを見返してみたが、ブトの写真はもちろんない。先にも書いたように、小さく、素早く、叩けもしないのでまず撮影できない。上の写真のように噛まれている最中に撮るという手もあるかもしれないが、そんなことは思いつきもしなかった。ブトに噛まれた跡の写真さえなかった。念のため、東千茅にも訊ねてみたがそんなものはないとのことだった。こんなに「親しく」ても、撮影の対象から排除してしまう生き物もいる。そういう生き物はほかにもたくさんいる。

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