磯田和秀
上臼と下臼の形はできた。あとは、上下が摺り合わさる面に、溝を彫れば完成する。
そう思って二日目に入った。
彫刻刀で溝を彫っていく。くどいが樫は堅い。小学校で使うような彫刻刀で彫れるのだろうか、刃がちゃんと入るのだろうかと、やる前は半信半疑だった。実際にやってみると、きれいに彫れる。杉やヒノキのような軟らかい木だと繊維がつぶれたり、木目に沿って裂けたりすることがあるが、樫は思ったように彫っていける。堅いものが砕けていくのが手に伝わってくる。この感触はむしろ快感だ。
同時に、気持ちいいのはいつまで続くだろうかとも思った。最初のうちは楽しくやっていられるが、堅いのには違いない。力を込めている手指の箇所を中心に、疲労が蓄積していき、痛みを感じるようになる。
前日のように、クレーンで吊ったり、長大なチェーンソーで切ったり、ヨキではつったりといった派手な作業ではない。午前中からひたすら、ゴリゴリ、ゴリゴリと、彫っていく。
退屈にもなってきたので、Netflixの『卑語の歴史』を観ながらやった。卑語とは英語でswear wordと言われる、f*ck、sh*t、b*tch、d*ckなどのことで、それを真面目に学問的に追究する番組だ。その回はf*ckの歴史をやっていた。f*ckという言葉は、「民衆が性交することは違法であり、王様が許可して初めて可能になった(Fornication Under Concent of the King)ことに由来する」という話がよく広まっているが、それは完全な作り話だときちんと解説されていた。にもかかわらずその話しか覚えていないことを思うと、デマや陰謀論というのは本当に広がりやすいものだと実感する。
午後はカズマさんの家に移動した。
このあたりから雪が本格的に降り始めた。
外は寒いが中は薪ストーブのおかげで暖かい。
こんなかわいい子もいるし、天国か。
3人で交代しながら彫り続ける。ただ線に沿って彫るだけの作業がこんなにかかるとは思っていなかった。彫刻刀の先も鈍ってきたのでときどき研ぎもした。
音楽を聴きながらやっているうち、ふと東が、友人が支配人を務めるホテルThe Boly Osakaのロゴデザインなどを手掛けたデザイン会社Allrightの話をはじめた。社員の一人東郷清丸はミュージシャンでもあり、会社は彼のために音楽レーベルAllright Musicを新たに立ち上げたという。さっそく東郷清丸の曲をBGMとする。音楽も作るし活版印刷もする。東郷さんもおもしろいし、そういう社員がいるからと音楽部門を作ってしまう会社もおもしろい。
ところで、コクヨ野外学習センターというポッドキャストがある。文房具などで親しみ深いあのコクヨである。そのエピソードの中に「働くことの人類学」というシリーズがある。その第2話では、アフリカ南部のカラハリ砂漠で「ブッシュマン」と呼ばれる人びとの調査をしている丸山淳子さんが登場して、ブッシュマンにとって働くこととはどういうものか、彼らの実際の生活に即して紹介してくれた。
丸山さんによると、ブッシュマンはその時の状況によって、さまざまな仕事をする。今お金がいるかどうかにもよるし、気分にもよるらしい。そして、丸山さんのように常勤で働いている人のことを「ひとつのことしかしないやつ」と(ややあきれたように。たぶん)言うそうだ。この話から思うのは、どちらがよいというわけではなく、どっちもありだね、ということだ。そういえばカズマさんは本職は大工だが、それ以外のこともいろいろやっている。東も自給農耕民だが、それ以外のこともいろいろやる。私もいろいろ。
意地悪な見方をすれば、ブッシュマンはいろいろやらざるを得なくなっただけではないかということもできるかもしれない。彼らはかつては遊動する狩猟採集民だった。しかし近年、政府の指導の下に定住化が進み、以前のような暮らしができなくなった。当然、日雇いなど、いろんな仕事をしないとやっていけないだろう、と。
しかし、いろんな仕事をする、というのはブッシュマンの伝統でもある。狩猟、採集、移動生活というのは、それぞれがいろんなことをしなくてはならない生活スタイルだ。家のことは妻に任せてひたすら狩りに専念する、というような、われわれの世界の会社員みたいな生活ではない。定住化による暮らしの変化に対して、ブッシュマンは「いろんなことをする」スタイルで応じたのだろう。そうせざるを得ない状況に追い込まれたには違いないにしても。
余談が長くなってしまった。
気が付けば5時をまわって外はすっかり暗くなったころ、ようやくすべての線が彫り終わった。試しに籾を摺ってみる。臼を重ねてグルグル回してみるとなにもかもがうまくいくような気がした。しかし、入れた籾は粉々に砕けていた。うーんと3人でうなりながら、どうしたらいいか相談し、上臼が重すぎるのは間違いないので、削って軽量化しようということになった。この日はもうやってられないので、みんなで仲良く鍋を囲んであったまって終わった。
1件のコメント